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砂の女

砂の女 特別版

監督:勅使河原宏
1964年 日本

もう随分と前に原作を読み、この映画と偶然出合ったのはそれから数年後のことだった。かなり原作に忠実な作りとなっていることに驚いたが、それもそのはずで、脚本を安部公房自身が書いていた。

不思議なもので安部公房の小説の登場人物は、詳細な人物造形がなされているにも関わらず、顔が見えてこない。男も女も記号化されており、まるでのっぺらぼうのようだ。そのせいもあってか、物語は強い寓話性を帯びる。一方それが映画となると、詳細な人物造形は省かれるのだが、そこは映像の力を借りることによって、薄っぺらくはなっていない。それどころか、顔のある人間が、場合によっては感触や匂いも伴いそうな映像表現の中で、にも関わらず完全に記号と化していることの不気味さが、物語の厚みを増している。

砂漠を歩きながら昆虫を採集する主人公の独白で映画は始まる。

お互いを確かめ合うための、あらゆる種類の証明書。契約書、免許証、身分証明書、使用許可証、権利書、認可証、登録書、携帯許可証、組合員証、表彰状、手形、借用証、一時許可証、承諾書、収入証明書、保管証、さては血統書に至るまで。
果たして、証明書はこれでしまいなんだろうか。まだ何か証明し忘れているのではあるまいか。
男も女も、相手がわざと手を抜いているのではないかと暗い猜疑の虜になる。潔白を示すために無理して新しい注文を思いつく。どこに最後の一枚があるのか誰にも判らない。
証文は結局、無限にあるらしいのだ。
お前は俺が理屈っぽ過ぎると言って非難した。しかし理屈っぽいのは俺ではなくて、この事実なんだ。

新種のハンミョウの存在を証明するため、砂漠へと旅に出た昆虫学者である男は、そこでひっそりと暮らす部落民達に捕らわれ、深く掘られた穴の底にある一軒家に追いやられると、奇妙な女との、それこそ蟻地獄のような生活を余儀なくされる。

女の不毛な生き方を否定し、そこに取り込まれることを拒絶する男は、幾度となく逃亡を図り、自身が自由を享受するに値する文化的な現代人であることを証明する試みに躍起となるが、その試みはことごとく失敗する。男は次第に穴の底の生活に慣れ親しみ、女に愛着を抱くまでになる。いきおい、女と結ばれる。

そうしてラスト、妊娠したことで穴の底には居られなくなった女が泣きながら連れ去られる姿を、男は黙って見届ける。後には縄梯子が残されていた。なのに男は、せっかくの逃亡の機会を自ら棒に振り、しばらくその場に踏み止まる決意をする。偶然発見した溜水装置の成功を、部落民達に証明したくなったのだ。

流動する砂が暗喩するのは時間だろう。砂を掻き続けて生きること、それは時間を食い潰して生きることだ。不毛ではあるが、それこそが人生の唯一のあり様であることを男は悟りながら、それでも自分というものの存在意義を決定してくれる証明が欲しくて堪らない。一方で女は水を暗喩しており、水は砂を征服する。もちろん彼女にも時間を止めることは出来ないが、砂を掻き続ける生活を自らの意志で受け入れている彼女は砂を、つまり時間を征服していると言える。果たして男と女のどちらが現実的で賢いだろうか。

脚本、画、構成、音楽と、どこを取っても巧みな映画だが、単に巧いだけでなく魅力的なのは、女を演じる岸田今日子の存在が大きい。さらさらに乾いた砂に塗れた画面の中で、彼女だけは水気を孕みヌメヌメしているように見え、あまりの高湿度に窒息しそうだ。羊水を垂れ流しているような、彼女自身が羊水を纏っているような、そんな感じがする。もちろん腐ってはいません。女という生き物から、あらゆる幻想を取り除いたら、岸田今日子という現象が残るのではないかと思えるほど、彼女は女そのものだ。しかしそれも男の一方的な幻想であると、現実の女は笑うかもしれない。


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